1391091508**{報告}2014エリヤハウス•ジャパン推進しもべ会

2014年のエリヤハウス•ジャパン推進しもべ会が、1/29-30と滋賀県大津市の大津バプテスト教会で行われました。しもべの先生たちとスタッフが集まり、主の導きの中、今年行われるワークショップのことやこれからのビジョンについて多くの新しいことが示されました。
今年も主と共に主の計画の中歩んで行きます。

2014エリヤハウス•ジャパン推進しもべ会
2014年のエリヤハウス•ジャパン推進しもべ会が、1/29-30と滋賀県大津市の大津バプテスト教会で行われました。しもべの先生たちとスタッフが集まり、主の導きの中、今年行われるワークショップのことやこれからのビジョンについて多くの新しいことが示されました。
今年も主と共に主の計画の中歩んで行きます。

とりなしの重要性

 多くの霊的リーダーは、自分の為にとりなしてくれるとりなし手によって助けられ、知恵を与えられることを知っています。このとりなしは、かけがえのない価値(祝福、預言のことば、忠告、守り、慰め、いやしなど)があることが証明されています。でも、もしひとつひとつの7つの文化的山のためにとりなす祈りやとりなし手がいたとしたら?(7つの文化的山(芸術と娯楽、ビジネス、教育、家族、政治、報道関係、宗教)世界の人々をミニストリーが必要な分野にわけたもの。ビル・ブライト師、ローレン・カンニング師による)例をあげると、もしすべての作曲家が神によって召されたとりなし手のチームを持っているとしたらどうでしょうか??%

新しい革袋:主の回復のプロセス

「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」マタイ9:7

新しいぶどう酒を入れるためには、新しい革袋が必要です。古いものに継ぎあてをしてもそれでは役に立たないということです。でも、古い習慣や伝統、やり方に慣れてしまった古い革袋がどのようにして新しい革袋になることができるのでしょうか?

最近読んだ本、「Possessing your Inheritance」(あなたの相続分を所有する)By Chuck D Pierce Rebecca Wager Sytsema の中からの引用です。

“ここで使われている「新しい」のギリシャ語は「neos」今まで見たこともない全く新しいではなく、「kainos」新しくされた、作り直された、回復されたという言葉が使われています。
革袋を新しくするためには、古い革袋を水に浸し、それから油でこすります。油でこすることは、私たちを柔軟にするための回復のプロセス(過程)の一部なのです。私たちが経験する困難な出来事こそが、神が私たちにすりこまれる油です。しかし、その油にはまた、新しい油そそぎが含まれています。聖霊が私たちを油でこする過程を通らせることを受け入れるならば、神が私たちに注ぎたいと願っておられるすべてのものを柔軟に受け取ることができるだけでなく、多くのものを自分の内から他の人へと注ぎだすことができるようになるのです。“

辛い困難な出来事も、私たちが新しい革袋になるためのプロセスだとは、神さまの恵みの深さに感動します。こすられることを通して、古い固くなった私たちの罪や汚れ、自分のやり方が洗い落とされて、柔軟になり、新しい革袋に生まれ変われるのなら、その過程も恵みと思えるようになりたいですね。

今年も主が注いでくださる新しいぶどう酒を豊かに入れる革袋となれますように。新しくされる過程も喜んで恵みとして受け取れますように。

失望と平安

あなたは、自分の人生にがっかりしていますか?私は、最近そのような人にたくさん出会いました。いろいろな経験から、私は、時々神は、私たちの人生に失望が来ることを許される、失望の元となっている土台(根)を取り扱うまで、ということを発見しました。失望の元になっている土台(根)とは、しばしば、聖徒として英雄になる姿を追い求めて必死に努力することです。 もし、私が最も愛あふれた父親、母親、最もしっかりした夫や理解して支える妻、主にあって素晴らしく用いられる働き人、そのようなヒーロー的な歩みをする男性、女性になれたなら...しかし、何年も必死で努力し、苦労してきたが、まだそこには届かない...。

良い伴侶になろうと努力してきたけれども、理想の結婚には到底届かないことに希望を失ってしまっていませんか?英雄になることは横において、真にあなたが自分に問わなければいけないことは、「あなたは自分のできる限りの力で最善をつくしてきましたか?」ということではありませんか?

ルカ21章のやもめは、自分が今まで一度も、英雄的な額を宮に捧げることができないことで、希望をなくしていたに違いありません。(彼女が、そこに希望を置いていたならですが)けれども、やもめは、レプタ2枚を持っていました。それが、彼女の持っているものの100%、すべてでした。イエス様にとって、それは十分なものでした。あなたは、自分の子供たちにとって良い模範になりたいと夢見てきましたか?しかし、今だに自分の子供時代の傷に支配されて、沈滞状態で、そこから抜け出せないでいますか?

「 あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える。」イザヤ54:13(口語訳)

あなたのミニストリーは、神があなたに与えてくださったビジョンをまだ達成していませんか?もし、あなたが自分の最善を尽くしてきたなら、神は喜んでおられます。あなたは、何かの中毒と何年も戦って苦労してきましたか?でも、まだそこから抜け出せなくて戦っていますか?もし、あなたが100%出して、出そうとして戦ってきたのなら、その努力はそれで十分です。

「進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」
                                       2コリント8:12(新共同訳)
あなたの心に平安が訪れるのは、自分の戦いを勝利することによって得られるものではありません。それは、神があなたの信頼を勝ち得た時に、そしてあなたが自分の達成したことによってではなく、神があなたの従順を賞賛してくださることで安息に入ることによって、得られるものです。

マーク・サンフォード エリヤハウスブログ Jul 29th, 2013より抜粋

主の心、願い

エスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
                           ヨハネ21:16

“イエスは、私たちの考えに従って回心者を造れとは言われなかった。しかし、「私の羊の世話をせよ、彼らがわたしの知識によって養われるのを見届けよ」と言われたのである。私たちは、キリスト者の奉仕の重点を何かをすることに置く。しかしイエスはそれを奉仕とはみなしてはおられない。それよりも、奉仕を彼に対する私たちのあり方として捕えておられる。” 「いと高き方のもとに」オズワルド・チェンバーズ366日の黙想より

エス様の心、願いを私たちは、どれだけ理解しているでしょうか?
あるいは、知ろうとしているでしょうか?

ともすると、何かをすることに一生懸命で、主の願い、心を知ろうとも、そのような時間をとることすら忘れてしまうことが多い私たちです。

祈りのミニストリーをする時に、いつも主の願いと心を知り、その知識により、主がなされる御業に信頼して、祈りを求めてこられる方を主が愛されるように愛し接することができますように。

静まってわたしこそ神であることを知れ。詩篇46:10(口語訳)

ねばり強さは、忍耐以上のものである。それは、捜し求めているものが必ず見出されるという絶対的な確信である。またそれは、よりすがる以上のことである。よりすがるという行為は、そこから落ちることを恐れる弱さにすぎない。・・・・・・

今あなたの希望が消えかけているとしたら、それはその希望が聖められようとしているということ。人が心に抱くすべての希望は、もしそれが尊く、神からのものであるなら、満たされないものはない。
私たちの人生において最大のストレスのひとつは、神を待ち望むことである
「あなたが、私の忍耐についていった言葉を守ったから」(黙示録3:10)と主は語られる。

霊的にねばり強く待ち望みましょう。

My Utmost for Hisghest(いと高き方のもとに)英語2月22日より引用 私訳